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 金科玉条


 おこりのごとくふるり、ふるりと身を震わす竹とんぼを見つけたのは若であった。

 御年六歳、人間達がゆく保育園やら幼稚園やらには通わず、家中の妖怪達に可愛がられてきた子供も、もうすぐ小学校とやらにゆくことになっている。
 人の世界をまだ知らぬ子供は、それでも伝え聞いた話に目を輝かせ、桜が咲くのを指折り数えて待っていた。
 その姿が微笑ましいやら、手元を離れてゆくのが寂しいやら、の首無である。
 いずれ人の世に出てゆく身、あやかしを基準にしては具合が悪かろうと、人型の妖怪として守り役の一人となった首無であったが、いとけない子供の愛らしさに、祖父たる総大将も苦笑するほどめろめろ、なのであった。若が泣けば世界の終わりを見、若が笑えば花が咲くような心持ちになると公言する具合である。
「若、どうされました」
 しゃがみ込んで何やら弄っている子供の前にそっと膝を着くと、リクオはぱ、と顔を輝かせ(ああなんと可愛らしいことか!)、首無を見上げ、ちょこんと首を傾げてみせた。
「首無、これどうしたんだろう」
 つい、と差し出された小さな手の上には、ぴくり、ぴくりと断続的に震える竹とんぼ。
 総大将が手づから竹を削り出し、二代目も遊んだという年季の入った代物である。
 首無は子供の手からそれを受け取ると、ふう、と息を吹きかけた。
 いぃぃぃぃ、と竹とんぼが身をよじり鳴く。
「うわっ」
 目を丸くした若に、首無はにこりと微笑んだ。仲間内から若への愛が恐ろしいほど(失礼な連中だ)溢れ出している、と言わしめる笑顔でもって。
「大丈夫ですよ、若。こやつは付喪神になるんです」
 硬い竹の繊維が脈を打っている。月の精気を浴び陽の光に灼かれ、いのちを宿らせようとしているものは首無の手を焼くかと思うほど熱くなっている。
 子供は興味津々の態でそれを触ろうとしたが、首無は柔らかく駄目ですよ、と言った。あやかしの身であればこそ、内部で渦を巻き膨れ上がり弾けようとしている妖気の熱にも耐えられるというもの。若のもみじのような手の平に万が一火傷でもこしらえたら大ごとである。主に首無の精神において。
 ぷう、と膨れた小さな主に、見ていてください、と語りかけた。
「これも、みんなみたいになるの?」
 みんな、とは本家にいる妖怪たちのことであろう。
 流石は総大将ぬらりひょんの棲み家、格の高いあやかしもごろごろしているが、付喪神のように低級のものも歩けばぶつかるほど大勢棲み付いている。
 心根の優しい若はどのあやかしも笑顔で相手をするものだから、懐かれて小さな妖怪を団子のごとくくっつけている姿もよく見かけられる。勿論、若が苦しいだろうと首無が一喝して追い払うのであるが。
「総大将がこれをお作りになってからまだ数十年なのですが……やはり本家は違いますねぇ」
 竹とんぼが大きく震え、目玉がぎょろり、と羽根の部分に浮かび上がる。それを見てうわあ、と喜ぶリクオに頬を緩めながら、一方感嘆の思いで首無はなりかけの付喪神を見下ろした。
「何が違うの?」
 好奇心旺盛な年頃である。首無の独り言を耳ざとく聞きつける子供に苦笑しつつ、若が問われることに答えない首無ではない。
「普通は、付喪神になるには、百歳ひゃくとせかかるんですよ」
「へえ」
「でもこの屋敷には妖気が……妖怪の力が満ちておりますからねぇ」
 ふぅ、と息を吐く。
「それに、付喪神は大事にされた道具がなるとも言います。若が大切に遊んであげたから、こんなに早く妖怪になるんでしょうね」
「ふーん」
 子供は分かったような、分からないようなという面持ちで、それでもこくりと小さく頷いた。
 理解できなくとも体の奥底に流れる血潮で、悟ることもある。そう思いそれ以上首無は言葉を重ねなかったのだが。
「ねえねえ首無、お母さんは人間だよね」
 唐突な問いに、瞬間首無は反応できなかった。三度瞬きして、ようやく意味を飲み込んだ首無、はい、と大人しく首肯する。
「妖怪の力がいっぱいなのに、お母さんは妖怪にならないのかなあ」

 少し、驚いた。
 リクオはまだ幼い。百の年月を単位とするような妖怪にとって、生まれたばかりと言っても過言ではない。
 だからこそ人と妖怪の、ことわりに関わるような質問をしてくるとは思わなかったのだ。
 驚きから冷めると、今度はなんと聡明で利発なお子なのだろう、という感動が胸をせり上がってきて、言葉が出ない。
 それを問いかけを無視されたと感じたのだろう、頬を膨らませたリクオがちろりと首無を睨み、ようやく我に返った。
「も、申し訳ありません若、あ」
 慌てすぎて首の上に乗せていた頭がころん、と転がり落ちた。無防備だった頭は浮かぶ間もなく縁側にぶつかり、目の前に火花が散った。
「だいじょうぶ!?」
 リクオが目を見開いて覗き込んでくる。小さな手が伸ばされたかと思うと、持ち上げられた頭は子供の膝の上にそっと下ろされた。したたかに打ち付けた額を、温かい掌がそっと撫でてくれる。
「どうしたの、首無。お前がそんなことするなんてめずらしいね」
「はは。どう……お教えすればいいか考えておりました」
 若の手から、するりと流れ込んでくる冷たい気。
 羨ましいと言うように、胴体の持つ竹とんぼがぶるぶる震えた。そろそろ手足が生えてくる頃合かもしれない。
「今の若には、まだお分かりにならないかもしれませんが」
 迷った挙句、首無は口を開いた。
 いつか分かってくれればいい、と思う。
 リクオはそれを察したのか、子ども扱いに不平も言わず、うん、と頷いた。
「お伽噺のようなものです。……太古の昔、火の塊だったこの星に命を芽生えさせたのは、空から飛んできたものだったと言います。海が出来、その中で命が育ち、やがて進化して動物になり、人になった」
 所謂原始スープ説、進化論というものである。三代目たるリクオが生を受けた時、人の子のことが知りたくて図書館へと通ったことがある。首さえマフラーなどで固定してしまえば、人の身と変わらぬ姿を有難く思ったのは生まれて二番目だ。(勿論、一番は若の守り役に抜擢されたことである)
「つまり若、人や動物、植物などは天の気が生み出したものです。それに対して妖怪は、この星の、大地の気が凝り生まれたもの」
 人が妖怪になる例はある。黒田坊などはその典型であろう。だがそれはもう、天の気を喪ったもの……人でなくなったものを、地の気が妖怪へと変質させたのだと、首無は思っている。
「地の気に浸っておれば、妖怪になることもありましょう。しかし、若の母御は、」
 そこで首無は言葉を切った。
 妖気が渦巻くこの本家において、人の身を保つ女性。
 それは特別なものではない、と思う。古来、人と妖が交わる例など幾らでもあった。大陰陽師、安部晴明の母御は妖狐であったと聞く。
 だが晴明の父御は妖怪にはならなかった。晴明も異能の力を持った人として死んだ。
 昔の人間はきっと肌で理解していたのだ、天地のことわりを。
 今はそれを失った人ばかり、だからリクオの母は珍しいのだと。妖怪たちの中で生きていることが不思議なのだと感じるのではないか。
「妖怪と交わろうとも、自分のいのちを知っている母御は、いつまでも人間であるのですよ」
「そっかあ」
 ぎぃい。
 はっきりと意志を持った鳴き声が、真剣な空気を打ち破った。
 ふと見やると、竹とんぼは完全に付喪神と化していた。
 生えたばかりの手足でぴょん、と廊下に飛び降りた付喪神に、子供は歓声をあげる。きっと今の話も、母は人間だ、ということしか分かっていないだろう。
 それでいい、と首無は思う。
 主たるこの子供も、今は人間の気配しか感じられない。天の気と地の気が分離してしまっている。だが。
 いずれ天地陰陽が調和すれば、血で理解するのだろう。二代目のように。

「若、走られると転びますよ」
 付喪神を追いかけ始めた子供に声を上げて、首無は笑った。ああ本当に。
 この大きな可能性を秘めた小さな主を、首無は心から慕っている。


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